【お知らせ】noteに移行します
なんとなくはてなに目星をつけて始めた、ほとんど更新の無い当ブログですが…
これまたなんとなく、noteに完全移行することに決めました。
理由としては、某所で「新しい物事に常にミーハーであれ」という考え方に感銘を受けたことと、noteでやっている音声配信と分けるのも面倒だし一括にしちゃおう、と思ったところです。
また、note毎日更新を実践してらっしゃる方を見て、感銘を受けて真似たいと思ったところもあります。
さすがに今の生活で毎日更新は真似できませんが。
そんなわけで、この記事がひとまずはてなブログでの最後の記事になります。
noteでの居心地が悪くなるようであれば、戻ってくるかもしれませんが。
ひとまずは、今までご覧いただいた皆様、ありがとうございました。
よろしければnoteの方でもよろしくお願いします。
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ある日のオタクデイリーログ
近所の友達と!
川口はSHIROBAKO展!
池袋はサンリオアニメストアSB69!仕様!
まちカドまぞくコラボカフェ!
HUBのハッピアワーで〆!
目覚めて即絶望的に嫌なことがあったけれど、人と一緒にあちこち堪能して少しはスッキリできたと思う。
人の力と行動することの大事さを思い返す一日だった。
オタ充するのは楽しいね!
家族の引力には抗えない~朝の睡魔編
我が家は玄関・風呂・トイレ以外の仕切りが無い。
自室・寝室も仕切りは無く、早起きして横を見ていようものなら9時10時まで母親と、妹に至っては昼過ぎまでグースカ寝てやがる。
これの何が問題かというと、自分だけがんばって早起きしても意味が失われるのである。
起きて朝食を摂って、準備が出来た、さあ何をしよう?
という段階で、奴らは寝ているのである。
俺の活動拠点である自室のすぐ隣で。
そうなると、まず音を立てられない。明かりを点けられない。
よって字の読み書きができない。つまりジャーナリングや朝日記、読書が封じられる。
次に運動。朝食後なので間が空いてからになるとはいえ、それでも奴らはまだ寝ている。
バーピーなどもってのほか、きつい腕立てやスクワット等々を除けばロクな運動もできやしない。
そして朝からそんなきつい運動をする活力はまだ満ちていない。
最終的に選択肢を奪われて行き着くのがスマホか二度寝か散歩である。
スマホいじって起きてりゃいいじゃん、と思われるだろうがことはそう簡単ではない。
この空間は寝ている人間が多数派、空気を起ではなく寝へ支配し続けるのである。
散歩してればいいじゃん、思われるだろうが一体何時間俺は散歩をするのではなくさせられなければならないのだろうか。
そんな空間で起きて元気に活動しよう!なんて気になれるはずもなく、見聞きしているだけで活力を奪う家族の寝姿は、その引力によってこちらにも睡魔を呼び寄せ、二度寝に導くのである。
ああ、眠たくて寝ているのにこんなにも不快。
朝活がブームになったように、一日の始まりを良いものにすることでその日の満足度は上がるという。
俺は今それを実家という環境によって奪われ、午後になってもこうしてうつらうつらしているし気分も冴えないまま、という日々を送っているわけである。
長く続きすぎて日中の無気力状態も少しずつ悪化し、今では他人の力を借りないと廃人に片足突っ込んだ精神状態でアフタヌーンを過ごしており、実際のところまずい。
やることはあっても、やれること・やりたいことが何も思い浮かばない。
…いい歳して毎晩遅くまで起きてんじゃないよ、頼むから。
なお、たまの休みに稀にここに絶対権力者の親父も睡魔族に加わることがある。
無益な一日の確定である。
この情勢下でかえって得られ、失いかねないもの
元々人とコネクションを作るのが苦手だった。というか作り方がわからなかった。
だから31にもなって話せる相手も、いざという時頼れる人もいなかったし、寂しさは常に消えなかった。
皆が皆ほぼ自宅にこもる社会になって、きっかけが生まれた。
同じ時間にオンラインで繋がれる環境。
これは今までではそれぞれの都合によってできなかった新たな機会だ。
繋がる時間が増すことで深まる仲。
これもコロナ以前では作ることが困難だった関係性だ。
故に、ウィルスの脅威こそあれど、俺にとっては逆に恩恵の方が大きかったように思えてしまう。
作業も自宅で一人でできるし、会いたくない人とは会わずに済む。
だから、今の状況が変わってしまうことの方が俺は怖い。
好きな人達と関わる手段が絶たれ、苦痛な日常に戻されるのが怖い。
日常が帰ってきた時、そこに本当の安心はあるのだろうか。
今の俺にはとてもイエスとは言えない。
ランダム単語物書き練習
ランダム単語ガチャというものを見つけた。
これ、お題作文として文章書くのに使えるんじゃね?
と思い、昨日から試しにノートに書いてみている。
せっかくなので今日書いたお題を載せてみる。
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お題【オリジナル】
オリジナルのモノを創り出すのは苦手だ。
いつも何か別のモノと類似したり、エッセンスを加えたものを生もうとしてしまう。
思えば小学校の図工の時が一番オリジナリティを表出していたように思う。
結果として出来たものは目も当てられないひどい結果だった。
それを自覚したのがいつの頃かわからないが、独創性の必要な図工等の作業が怖く恥ずかしくなった。描いては人に見せていた漫画も描かなくなった。
中学で張り出していた恥ずかしい思い出のあのネタ新聞も全部パクりだった。
いじめへの勧告もどっかの受け売りだった。
今便利に使っている「実感」もH先生のものだ。
今オリジナルで外に出せているものと言えば、ブログとか、アニメや本の感想ぐらいしか思いつかない。
オリジナルって何だ。
オリジナルは大抵いつだってもてはやされる。
オリジナリティの無い人間は劣っているのか?
そうではないと思いたい。世の中、オリジナルを生み出す人と、それを使いこなす人で回っている。
だからオリジナリティは絶対的な優ではなく対側面なのだと思う。
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実際にやってみて思ったのは、思った以上に言葉が出てくるものだということ。
文法とかめちゃくちゃでも気にならない(読み返さなければ)。
お題について考えることが普段はなくても、心のどこかでちゃんと考えを持っているのだということ。
いざやってみると過去が関係していたりして色々と面白い。
極め付けは、こうして文字起こしする時に、字が小さい汚いで非常に読みづらいということだった。
だからノートの読み返しとか苦手なんだよなあ。
した方がいいんだけど。
読みたいこと、書けますか
書きたいことを書く、ならまだわかる。
でも、読みたいことを書く、ってどうすればいいんだろう。
書きたいことを書くなら日記ならジャーナリングなりにいくらでも殴り書ける。
読みたいこととなると、自分は自分の手で何を読みたいんだろう?とわからなくなってしまう。
こんな本があったらいいのにとか、こんな言葉をかけてくれる文章があればいいのに、とか、そういう願望を込めればいいのか?
多分、著者はそこまで難しいことを言っているつもりはない。
著者の人柄とかスタイルを読んだり調べたりしててなんとなくそれはわかる。
でも、どうしても「読みたいこととは何か」に引っかかってしまう。
そういえば、自分の書いた文章やブログを見返すのが俺は苦手だ。
モーニングページも見返している時は羞恥に耐えながらの作業だった。
そこには何か恥ずべきものが常に潜んでいるように思えて、とても目を向けられないから。
それを変えるのが「読みたいことを書く」ということなのかもしれない。
読み返して、他人のためじゃなく自分のためのメッセージを第一としての。
俺が読みたい俺の文章ってなんだろう?
探り探り、今日も書きたい何かが降りてくるのをボーッと待つ。