月と仔犬

双極性障害のアラサーです。好きなことを書いてゆきます。FGOに時間を奪われながら、現在作業所通所中。

アニメひとつ見るたびやってくる喪失感が怖い。

アニメを一作品見るたび、喪失感に襲われる。
 
プライムビデオ視聴期限間近で感性を揺さぶられる作品に出会うと、何度も見られる限りリピートしようとしてしまう。
 
当然ながら、リピートした回数だけ涙腺を破壊されたり、何故この作品は永遠に続いてくれないんだろうとか思ったりもする。
永遠に続いたっていいことがあるわけじゃないのにね。
 
なぜ辛くなるのにまた見てるんだろう。
その辛さが心地いいとか言えるほど俺はMではない。
 
儚さに惹かれるからとか言えばそれっぽいけど、それは綺麗に言ってるだけだ。
 
全部が全部じゃないけど、きっと作品の中にある点々とした喜びに病みつきになってしまって、そこを味わいたいだけがために再生ボタンをまた押してしまうのだろう。
 
感動はそう簡単に、短期間に何度もできるほど安いもんではないとは思う。
でも現実にこうして心を揺り動かされる日々を送っていると、人の感動のシステムも簡単じゃないなとか思ったりもする。
 
だから見るたび、こうしてまた心を揺さぶってくれてありがとうと。
そう思えるようになった。

プラスティック・メモリーズを何周も見ての想い

プライムビデオの視聴期限に怯えながら、いつ見られなくなってもいいようにプラスティック・メモリーズを何周も見ている…というか流している。

 

再生し過ぎて感覚がマヒしてきたのか、もはや再生中でも画面を見ている時間の方が短い。

大抵はスマホをいじったり本を読んだりしている(意外と読書しながらのながら見もできるもんだ)。

 

でも、ただ作業中に流しているだけではない。

段々と目を向けるポイントが絞られるようになった。

 

アイラが回収時にあの言葉をかけるカット。

アイラが表情を出し始める瞬間。

10話のカヅキとアイラの本音でのぶつかり合い。

8話や10話の一連の告白シーン。

最終話EDまでの大切な最期の時間。

数少ないシェリーのカット(アイラの次に好きなので)。

 

逆に、要所ってそこまで多くないんだなとも思った。

ここだけ目を向けていれば満足、という見方をするようになっていた。

むしろ、そこだけ見れば涙腺が緩む、くらいの感じ。

 

VITA版ゲームの各種EDを見ていると、最初は美しく儚いとだけ感じていた本編の終わり方が、あくまでも可能性の一つであると考えられるようになり、不思議な感覚に陥っている。

ちなみにゲーム版はなぜかバッドエンドに強く惹かれてしまう。

 

視聴期限のせいもあるとはいえ、ひとつのアニメにここまで執着するとは思わなかった。

願わくば、またここまで心を掴んでくれる作品に。

大切な作品と、いつかまた巡り会えますように。

 

なおDVD全巻買いました。ホントはBDが良かった。

 

 

 

プラスティック・メモリーズ - PS Vita

プラスティック・メモリーズ - PS Vita

 

 

プラメモとの再会

プライムビデオの視聴期限が迫っているということで、プラスティック・メモリーズを見た。

 

放送当時に途中まで見ていた記憶はあるのだが、なぜ最後まで見た覚えがないのかはわからない。

 

切なかった。人よりさらに限りある、限りなく人に近いものとの関係性と、別れの時。

どうしようもない想い出の終わり。

これだけ書くと救いが全く無いように見えるが、ちゃんと人の中に想い出は生き続けていて、失くなることはない。

 

キャラクターも一人一人魅力的で、嫌味が無い。

だから素直に好きになっていけたし、2回見るのも苦ではなかった。

 

ロスから抜けられない体質なので、期限切れまでまた見直す予定だし、あろうことかPS VITA本体とゲームまでポチってしまった。

それだけ感銘を受けさせてもらった、ということにしておこう。

ガチャ課金のせいで資金が心許ないのがいただけないが…

 

プラスティック・メモリーズ

見るなら今です。

インもアウトもガバガバ

文章を書きたい。

だからそれを裏付ける元、要はネタが欲しい。

 

検索してみれば、「ネタはそこら中に転がっていて見えてないだけ」とか書いてある。

でもそれだけじゃない。

ネタをネタらしく昇華できるほどのアンテナと眼力が備わってないのだ。

 

ブログでなくとも最近はTwitterの分量で、いくらでもネタツイやマジツイのしようがある。

 

今自分にはそれすらない。

何かを吐き出したいのに、その何かがわからない。

それを言葉にするやり方がわからない。

 

そもそも自分に言いたい事なんてあるのだろうか?

疑問に思えてくる。

 

本の感想も書けなくなった。読んだ先から頭から抜け落ちるようになってしまったから。

 

インプットもアウトプットもできない人間は何をすればいいんだろう?

 

答えはどんどんネガティヴへ。

死地だから、行けない

絵師をたくさんツイッターでフォローしてることもあって、コミケ期間は情報の流れや熱量が激しいものだった。

 

後から見て欲しいモノとかも結構あったし、あの人にあんなこと伝えたい!とかもささやかながらある。

 

でも、夏コミは死地なのだ。トラウマなのだ。

 

最後に行った夏コミで、入場前に倒れかけたことがある。

帽子や水分もしっかり準備してなお、だ。

 

あれ以来、何が手に入ろうともコミケには行けない、行ける身体じゃないと思うようになってしまった。

それは1つの楽しみ、夢の喪失でもある。

 

アーティストのライブも同じように、テンションをブチ上げられるエネルギーがなくなったため行けなくなってしまった。

楽しめないものに行っても仕方ないからだ。

パワーの無い者にしてみればあそこもただの死地と化す。

ライブという場も、一緒に楽しむ人も失くしてしまった。

 

いつかまた行ける日が来るだろうか。

 

 

 

安心する音楽とは

パワーのある曲や歌声は好きな方だ。

 

でも、今はそういった音楽がつらいことが多い。

精神が音楽のパワーについていけず、先に疲弊してしまうのだ。

 

気になるアーティストのアルバムを試聴してみたら全曲パワフル系で試聴すら満足にできなかった…なんてことも珍しくない。

パワフルというより、「元気出して!」が露骨な音楽がつらいのだ。

 

聴けなくなった好きなはずの楽曲たちも少なくない。

 

例外もあるからイマイチその辺の感覚がよくわからない。

例えばUNISON SQUARE GARDENとかはむしろ安心する。

ダーク系、アニソンも大丈夫だったりする。

 

果たして病気のせいだけなのか。

一体なんなのやら。

読了「マインドフルネスの教科書」

 

マインドフルネスの教科書 この1冊ですべてがわかる! (スピリチュアルの教科書シリーズ)

マインドフルネスの教科書 この1冊ですべてがわかる! (スピリチュアルの教科書シリーズ)

 

 

読了。

マインドフルに行う、という考え方がまだ直感的に呑み込めていないが、ともかく自分の心に意図的に気づくことなのだろうか。

 

ネガティヴ感情が自己肯定感の低さからくるというのは未知だった。

マインドフルネスで鍛えることでマシになるらしいが果たしてどうなんだろうか。

 

今まで呼吸瞑想を自然な呼吸でやらず、カウントを守るだけになっていたので、書かれていたように気づきをメインに変えてみようと思う。

慈悲の瞑想はなかなか都合上実行が難しいけどなるべくやれる時はやってみたい。